テーマ:研究者への階段

研究者への階段8

ポスドクとして海外で研究をを続けていれば自ずと成果は挙がるもので、小さいものでしたが、半年過ぎた頃に学会発表1つ(オーラルでしたので、ボスにやってもらいました)、論文1つ、となりました。ただ、この時の研究は、ボスが計画を練って自分は実験をするだけでしたから、仕事をすれば何かが出て当たり前という状況でした。このように無事2年目を迎えられた…
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研究者への階段7

がむしゃらに研究生活を続けていれば自ずと成果は挙がるもので、小さいものでしたが、アメリカに渡って半年過ぎた頃に学会発表1つ(オーラルでしたので、情けないですが、ボスに発表してもらいました。)、論文1つ、となり、何とか翌年の契約は保証されました。ただ、この時の研究は、ボスが計画を練って自分は実験をするだけでしたから、仕事をすれば何かが出て…
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研究者への階段6

次なる戦いの場はカリフォルニア大学デイビス校医学部のある研究室でした。HIV関連の研究を行うポスドク(postdoctoral fellow)として、農学部で畑仕事をしていた自分を採用してくれたボスは台湾人教授でした。Taiwanese American(アメリカで生れ育った台湾人)ではなく、 台湾からアメリカに渡り教授になった人ですか…
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研究者への階段5

どうにか除籍になる前に博士号を取れたわけですが、手渡された博士号の証書は実に軽いものでした。感慨も何も湧きませんでした。6年間の時間を天秤にかけてるほどの物でしたか?と聞かれれば、「No」と即答できます。そこの先生だったか忘れましたが、「博士号なんて免許だよ、免許」と言われたことをその時実感しました。そして「免許を取った後が大事なんだよ…
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研究者への階段4

博士過程6年目の自分には、博士号取得後の就職先が日本にありませんでした。もっとも自分も日本で研究を続ける気はさらさらありませんでした。後輩達が先に博士課程を取り、大学の助手や農水省の研究所に勤めるのを見てきた自分にとって、日本に残って研究を続けることは「負け」を意味していたのです。今を思えば、何を小さいことを、と思いますが、負けん気の強…
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研究者への階段3

学部の2回生までは遊びまわっていた自分ですが、3回生の時に志願した研究室で実験をするうちに研究の面白さに魅了されてしまいました。論理的な思考に基づいて実験をし、良い結果が出たときの嬉しさは自分にとっては格別なものでした。パズルの最後のピースをはめる瞬間、に似ています。ですから、4回生の夏頃には、大学院に入って博士号を目指そうと思い、修士…
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研究者への階段2

今の時代と違って自分の頃の農学部は男しかおらず(女性は1割以下)、必然的に研究室も体育会系のノリで運営されていました。「先輩」には絶対服従です。台風の中、から揚げ弁当を買いに行かされたこともありました。吉野家が朝定食を始めるというその初日に「並んで食べに行こうぜ」と先輩に言われ、朝4時から並んで先輩を待っていたこともありました。もちろん…
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研究者への階段

以前、プライベートのブログ(閉鎖しました)に書いていた「自分の来た道」を転載しようと思います。不定期連載です。 学部生の3回生から研究室に配属されたのが15年ほど前。初めて研究という道を踏み出した瞬間でした。自分が入学した大学では、卒業論文のため、3回生になるとどこかの研究室に配属しなくてはいけませんでした。その当時、バブル期(絶…
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